七十路半ば淑美の独り言 

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zoom RSS 日本の歴史を読み詠む53<江戸幕府1>人質暮らしを経て三河平定

<<   作成日時 : 2017/01/26 15:41   >>

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日本の歴史を読み詠む53<江戸幕府1>
    日本の歴史(小学館)<16江戸幕府>〈著者北島正元)参照
 変形性足関節症の手術リハビリのために約2か月半の入院生活をおくったために本シリーズも
一時休止していたのだが前回の「織田豊臣政権」に続けて「江戸幕府」から挑戦することにした。

 「ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志を表現し、時代の意志をその時代に向かって告げ、
これを実行することのできる人間である。彼の行為は、彼の時代の精髄であり本質である。
彼はその時代を表現するものである。」哲学者ヘーゲルの「法の哲学」より
著者は序文において上の一文を掲げ、
「変革期、建設期をリードする偉大な人物は、その時代の新しい社会的要求を誰よりもはやくつかみ、
それを実現するために率先するということであろう」と解釈し、信長、秀吉、家康の三人の覇者が天下
を取るために掲げたスローガンは
「多年の戦乱によって塗炭の苦しみにあえいでいた民衆に平和と安寧をもたらすことであった。」
と述べている。
そしてこの概念に従って、本書では、江戸開府から家康の死まで、つまり江戸幕府の幕府体制が全体
として確立するための準備期、すなわち戦国の英雄家康を幕藩制国家の専制的首長に仕立ててゆく
過程が取り上げれれている。
信長秀吉の意志と行為がどのように家康に受け継がれ発展せれていったのか、
そこに注目して詠み進めたいと思う。


画像



           < 松平郷から三河>
応永の頃三河の国称名寺に遊行僧親子わらじを脱ぎぬ
      もと上野国新田郡世良田荘徳川郷に住みし者たち


父は左京亮有親、子は親氏、これをして松平氏の確かな始祖なるか
            家康は有親より9代目なり


家康貴種に拘泥し清和源氏新田氏の子孫を名乗れども学会にては信憑性無
            松平氏の確かな始祖は親氏にてその子泰親ともに活躍したは
            14世紀後半より15世紀前半なり


泰親は額田郡の岩津五伊原攻略し矢作川中流の重要地点を占有す
            松平郷は交通不便な山間の部落だから


三代信光は政所執事伊勢氏の被官にて安祥城、額田郡岡崎城を攻め取りぬ
            応仁文明の大乱の頃


松平氏三河の三分の一支配下に置き有力国人層と肩並べたり


信光四十八人の子女設け各地に分封、また領主土豪に嫁がせ支配拡げぬ


所務分けにより七家が松平氏の支族となりぬ
      矢作川の東岸一帯から三河にかけて


一族の分封続けられ七代清康の頃には計十四家となりたり


十四松平家の根拠地は交通運輸上の要地にて松平武士団の防衛前進基地
      宗家本城と連携し


松平本家と庶流の関係は惣領制の原理なれどしばしば円滑欠き謀反起こすことあり


離反する一族家臣を押さえるため忠実な直属家臣団必要としたり
      これ三河譜代の起こりなり

三河譜代の最古の系統は初代親氏の時代南北朝より室町時代中頃に始まりぬ


譜代なれど勢力拡大の諸段階に応じ譜代化に遅速あり
      岩津譜代, 安祥譜代、岡崎譜代


新酒井、大久保、本田氏は岩津譜代にて石川家は安祥譜代なり


松平氏は寄り親寄り子制を譜代制の基本としたり


服属したるは上層譜代武将を寄り親として寄り子となりたり

       
             <守山崩れ>

七代清安は一五二三年岡崎城に移り以後四五年本拠としたり
      十三歳で家督相続。


清泰は苛烈な戦い開始し諸豪族は相次いで服属東三河一帯のほとんど松平氏の勢力下となりぬ         豊橋の吉田城など


松平氏清泰の時代に戦国大名への方向明確となり領地の支配体制固まる
            岡崎五人衆と代官,小代官による宗家の蔵入地(直轄地)の支配体制確立
            上級家臣の屋敷割を中心とする岡崎城下町の建設
            諸国の流通統制の強化


五代長親の代〈一五〇五年)今川氏親は三河東部の吉田を占拠し客将伊勢長氏(のちの北条早雲〉に松平を攻めさす

宗家と氏族との対立深まり東隣の今川、西隣の織田に内応するものあり


松平信定討たんと守山に陣張った清泰は老臣阿部貞吉の息子弥七郎に謝って斬られぬ
       貞吉には謀反の噂有り、弥七郎は父が討たれたと早合点
             清泰二十五歳


嫡子広忠は十歳にて大叔父松平信定は岡崎城横領を謀りぬ


阿部貞吉広忠奉じて伊勢に亡命今川義元の援助で岡崎復帰を図る
       岡崎の譜代大久保新八郎忠俊らと組み


三河の大半は今川義元に占領され西三河は織田信秀に侵略されぬ


松平武士団は圧力強い今川氏に依存せざるを得ない状況なり


領国クルミ割にされ家名冴え保持できぬ危機なれど広忠の岡崎復帰は叶いたり


1542年広忠に男子出生幼名竹千代後の家康なり


その母於大は刈谷城主水野忠政の娘なり水野松平両家は重婚関係にあり


水野忠政死し息子信元織田と結びたる故於大離別されぬ
      竹千代3歳で実母と生別


             <囚われの13年?>
織田信秀対義元との戦いに広忠義元に味方し敗走
      第1次小豆城の合戦


松平武士団の親織田派は信秀の支援受け主家に弓引きぬ


広忠は義元に支援乞い竹千代人質として取られぬ6歳なり


継祖父に騙され竹千代は500貫にて信秀に売られぬ
      岡崎を発ち船で今川に向かう途中


信秀は竹千代囮に広忠に帰属迫るも広忠応ぜず
     

竹千代父にも見放され監視付きで熱田に捕らわれの身


1548年義元は広忠 援助し信秀軍を破りぬ第2次小豆城の戦い


1549年3月広瀬城城主の刺客により広忠暗殺されぬ享年24歳


松平軍団主君失いて混乱義元宣言「岡崎領地はすべて支配下に置く}と


家老一門も妻子連れて駿府に移住岡崎城は今川氏の侍大将が在番


老臣石川右近ら二の丸の奉行となり租税雑務執り行いたり

義元安祥城を奪回し三河の領国化を推進す
     松平一族完全服属化はかりたり
            三河の行政権証裁断権を握りぬ


竹千代尾張に居ること三年今川氏の人質として駿府に抑留されたり


今川氏安祥城を織田氏より奪回し信秀の庶子信広との人質交換なり


今川氏老臣ら「強固な松平軍団を滅亡させず利用すること得策」と考えたり


抑留生活は六歳より一九歳の一三年間,十歳の時信長織田家の当主となりたり


済寺の住持太原雪斎は碩学にて軍学にも長じ抑留中の竹千代の師なり
    
  人質交換にも働きあり

1555年14歳となり元服松平次郎三郎元信となり翌年には岡崎に帰城二の丸に入る

一六歳で今川の重臣関口義広の娘娶り長男信康誕生、元康と改名元康は
     
          今川氏の一門挌となりぬ

        
<三河譜代 岡崎衆の窮乏>

義元は三河の松平領の年貢総て押領し元康には形ばかりの扶持与えるのみ
       元康家臣養い難し


譜代の家臣たちいずれも自ら鋤鍬とりて泥にまみれて手作り妻子養いたり


元康への災い恐れた岡崎衆は今川家家臣の前では卑屈なり


義元は年に3度5度岡崎衆を織田との戦いの先鋒に勤めさせぬ
      主君を見限り今川の知行受けるものも出てきた


かかる中でも岡崎州は「武士の意地・一分」として「忠」を守り抜きぬ

        
<桶狭間で義元敗北 信長との同盟>


1560年義元三河の守に任ぜられ駿河遠江三河三国支配の分国大名となりぬ


三月義元は二万5千の大軍率いて駿府を出発


元康は尾張の大高城に兵糧入れ成功し鷲津丸根両城も落としたり
      織田の支城の間を通過し

桶狭間にて義元敗北今川勢退去後元康岡崎城に入城
       13年ぶりの主君帰城なり


元康は氏真に弔い合戦薦めるも氏真同心せず


元康は 氏真に見切り付け信長の講和の申し入れ受けたり
       本能寺の変まで講和は持続


講和結んで信長言いぬ「我は上方へ攻め上る。松平家は東国へ向かい武力次第に攻め取るがよい」
       互いに助け合い大功を遂げよう


松平の断交知った氏真は松平譜代の人質に酷刑下しぬ


元康は今川の武将となっていた松平一族を改めて松平の譜代家臣に編成する努力したり


譜代の酒井正親西尾城の城主となりぬ


1563年元康は家康と改名し自律の決意示しぬ

 
       < 一向一揆と三河統一>
< /strong>三河の一向宗は親鸞による布教(1232年)を皮切りに本願寺八世蓮如が土呂に本願寺を立てて以来〈1468年)いっそう盛んとなった

譜代・門閥層は大久保、小栗、天野氏ら1部を除いて本願寺門徒なり


本田、内藤、酒井、鳥居、阿部、榊原、伊奈、神谷など有力直臣衆皆本願寺の組衆なり


本願寺派は信仰組織講組を結成し共同体ぐるみ門徒に組織


酒井氏石川氏などは信仰と譜代意識を両立させたが土着の中小譜代はどちらを選ぶか決断難し


家康は家臣団の完全掌握には本願寺教団との対決必要と考えたり


家康指示し佐崎城主菅沼藤十郎が一揆を挑発したるらし
       東三河に経略の手を伸ばすには西三河の流通経路握る本願寺教団の解体が必要

藤十郎に食糧徴発された上宮寺檄を飛ばして一揆起こしぬ


参加者は在地の三河譜代、土豪、地主、一般の農民からなる門徒軍なり


信仰とは別に反松平で結束した松平支族 、国衆、譜代等の参加者もあり


一揆衆は「進む足は極楽世界、退く足は無間地獄」合言葉に果敢に戦いぬ


一時は岡崎に至るほどに戦えど有力武将失い、降伏者も出て戦意失う


三か条にて和議は成立家康の戦後処理寛大なり
     参加武士の本領安堵、本願寺の寺道場僧侶はもとのまま中心人物は殺さぬ

家康は厳しい処分で松平軍団の結束崩れるを憂慮したり


君臣同族相食む一向一揆の鎮定を契機に門徒組織を押しつぶし松平軍団に組み入れたり
     一族、譜代、土豪、名主層の抵抗


吉良、荒川氏は上方に逃げ酒井忠尚は駿河に出奔


東三河を平定し酒井忠次に預け西三河の諸氏は統括者石川家成に属す


軍制として酒井忠次組、石川家成組、旗本陣の「三備」成立す


1565年三河三奉行設立国務は軍政管任務と兵糧調達輸送なり


三奉行に任命されたは本田作左衛門重次、高力与左衛門尉清永、天野三郎兵衛康景
      世人言う「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三郎」
      剛柔寛猛を組み合わせた人事なり


名実ともに三河の主となりし家康1566年従5位下・三河守に任ぜられ、徳川に改姓
      三河守は今川義元が名乗っていた官

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