七十路半ば淑美の独り言 

アクセスカウンタ

zoom RSS 日本の歴史を読み詠む51  <織田豊臣政権6>小田原以後の民衆支配

<<   作成日時 : 2016/08/18 11:08   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

日本の歴史を読み詠む51  <織田豊臣政権6>
小田原以後の民衆支配   国絵図と御前帳 検地と農民 66か国人掃   侵略基地と太閤蔵入地
          
<小田原以後の民衆支配>
宣教師ヴァリアーノ1590年に再来日小田原以後の民衆支配について記したり


中央集権の強化が実は地方分権の強化をもたらし総体として民衆支配は比類なく強化された


1690年来日したエンゲルベルト・ケンンベルは記す


秀吉はコレアを征服しそれを通じて大戦によっても力衰えぬ大諸侯をその本拠地より遠ざける画策したり


「秀吉の大陸侵略は領主たちを統制し国内支配を整備するためであった」と


国家に取り危険な多頭の怪物民衆を統御する新法でこれに反する一切の違反は情状酌量の余地なし
           血をもって購うしかない

           
                 <国絵図と御前帳>

秀吉は日本国絵図まとめ天皇に納めんとしたり


全大名に命じ「地形・寺社・田など詳細に描き入れた絵図を作成提出させぬ


「宮中にとどめ置く」は秀吉の権力集中の形式の一つにて聚楽行幸に通ず


総絵図の作成提出は検地の総仕上げとその完了を意味す


総絵図の作成の総責任者は増田長盛なり「指図絵」ともいう


検地のピークは1591年文禄第1次侵略、1594年慶長第2次侵略の時
   
      検地と侵略の関連明らかなり


検地実施にあたり村人の関心は検地帳に己が名がきちんと書き込まれること


耕作権を決める基準は誰が実際に耕作し年貢を納めているか
          これを「作職」農地と農民の関係

              
               <検地と農民>

検地政策のも一つのねらいは村ごとに登録された農民の離村の禁圧


中世は「おとな百姓」が農地を下作として他の百姓に耕作させ「作合」(小作料〉取りぬ


検地により「ひらの百姓」が「おとな百姓」と並び検地帳に登録されたり


現実に年貢を負担する者、農地を耕作するものが「ひらの百姓」なり」


「一人でも多くの農民を、一筆でも多くの土地を」これ太閤検地のねらいなり


太閤検地は「おとな百姓}「下作」の構図が解体し「ひらの百姓」が法的に保障され
                       独立を強めていく重要な転機なり


         <66か国人掃>

豊臣政権は1585年の紀州一機の鎮圧、関白就任より多くの法令出しきたり


1591年ついに「19年令」(一般法)発令したり


この法は「身分法令」と呼ばれ下剋上凍結法の総仕上げなり


第1条は「兵の統制令」で兵から商工農への転業の禁止令すなわち「身分固定法なり

    
農民支配の法、第2条は百姓が農村を離れて町場に移住するを禁止しそれを町村の
                                  連帯責任で取り締まるを定む

「兵」は主従関係の縄に「農」は土地の上にしばりつけられ「商、工」は兵とも農ともきり離された
                                  町場に住み領主の統制下にくみこまれぬ


1691年秀吉は秀次に関白職譲り太閤として自由の身になり対外政策に没頭


1592年秀次「唐入り御陣に付いて5か条の御置目」発令
         国内の侵略体制固め

先陣に駆り出されたもの欠落逃亡したら当人親類住所ぐるみ死刑にすただし密告者は許す


人夫として戦場に駆り出された者の留守中の田畑の耕作は村中の連帯責任として強要
          農耕地と労働力の確保を夷如何にするか


秀次さらに「66か国人掃令」とう戸口調査令発す


この法令は19年令を具体化し徹底させるためのものに身分別村別の戸口調査なり
           「唐渡」まで記入

この調査戸籍としての人別調査というより各領域ごとの農村の動員状況の把握が目的


画像




            <侵略基地と太閤蔵入地>
太閤直轄領(蔵入地)は総高約200万国越えたり

              蔵入地の密度は近畿から北九州にかけて密集


近畿の蔵入り高は約65万石で全体の30%


大阪城周りの大坂寺内、堺中心の寺内を包み込み蔵入地及び馬周り衆の知行地として直に掌握


織田豊臣政権を出現させた濃・尾・勢・江は全体の四分の一近い52万石集中し、
                                            豊臣政権の涵養地なり

近畿中心に延びる太閤蔵入り地の分布は侵略に向けて豊臣水軍を養成し、物資補給の
                  ルート確保し侵略基地九州を「5畿内同然」に確保する根拠地なり

蔵入地の少ない地域に渡り金銀山からの蔵入り運上多し


豊臣政権は全国の鉱山を天下すなわち統一政権の蔵入り分として領主から接取強要
            自分たち直属の役人を駐在させる

九州各地の蔵入地はすべて侵略との関連で作られたり


1593年大友軍は戦線放棄退却の行いありと改易され毛利氏預かりとなり没収された豊後国を
                                    「蔵入地」に編入「臆病疵」と言われる

侵略と旧族大名の改易強行は権力集中への直線ルートなり


接収した蔵入地には小身の子飼いの武将を送り込み大名として豊臣政権の基盤作りに利用し                                                  旧諸大名の解体と石田系直臣団の強化


1598年筑前の小早川も改易されぬ肥前の羽多信時薩摩の出水島津も


改易没集は侵略体制の補強のほかにと豊冨政権内権力闘争の露呈なり


蔵入地の大名には石田ら吏僚系の重臣に連なる大小名たちが代官として送り込まれぬ


対高麗7年戦争の態勢の下で石田増田ら相次ぐ太閤検地を行い権力集中を押し進めぬ
  
         西は島津領から東は佐竹領まで


侵略戦争とその決定的敗北への過程で政権中枢が底知れぬ退廃と政争の淵にのめり込めり


文禄4年〈1595年〉秀次自殺させられぬ

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
日本の歴史を読み詠む51  <織田豊臣政権6>小田原以後の民衆支配 七十路半ば淑美の独り言 /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる