人は皆己がイリュージョンで世界見る見える見ているものはそれぞれ
それぞれに生の論理がある故に人と動物異なる環世界
人の環世界イリュージョンが支えるならば正しきイリュージョン育てる必要
三月の読書対象として日高俊隆著の「生き物の流儀」(岩波書店)を選んだ。
著者日高氏は京都大学理学部長などを務めた動物行動学の権威である。
その先入観もあってか、内容はかなり学術的なものだろうと思っていたが、実は、内容は学問的でも、文体、話の進め方はエッセイ風で読みやすくはあるが,理論の理解という点ではなにとなく「靴上掻痒」の感なきにしもあらずであった。
(恥ずかしながら、曖昧なものへの私の洞察力は余りよくない)
しかし、それなりに学んだこと、考えたこともいろいろある。
まず、この本の第一のキーワードは「イリュージョン」strong>という言葉、概念で、それに関するいくつかの記述がある。
『人間はいかなる幻想をも持つことができるし、いかなるイリュージョンによってもも のを見ることができるのだ』 (P、17)
『人間も人間以外の動物もイリュージョンなしに現実を見るなどということはできない』 (P、18)
『重要なのは自分の持っているイリュージョン、あるいは現物を見たとたんに作り上げ てしまったイリュージョン、そのイリュージョンによって人は現物を見るのだ』 (P、35)
ここでいうでイリュージョンとは何を意味するのか?
辞書で調べると、「幻想、幻覚、誤解、錯覚」とあるが、氏の伝えたいところは少し違うようで、次のように説明している。
『全生物の上に君臨する客観的環境など存在しない、我々は認識できたものを積み上げ てそれぞれに世界を構築しているだけだ。
この認識をイリュージョンという。』 アリを見た少年たちが描いた絵に関するエピソードは
『人間は現実の実物を見ても、それが実物どおりには見えず、その人が想像するように 見てしまうということがしばしばある』(P、15)の具体例として大変興味深い。
ここまで読んできて、私は以前に書いたことのある「短歌と自分の身丈」(2007,10,27)や「移りゆく教養を読んで」(2008,3,05)を思い出した。
イリュージョン説を短歌の作詠、鑑賞に当てはめてみよう。
ある人がある風景について短歌を作る。
このとき、この人は自分の持つイリュージョンで風景を捉え、その風景そのものを、あるいはそれから得た感慨を短歌として詠ずる。
この短歌を読む人はその人のイリュージョンで感じ、解釈する。
詠んだ人と読む人のイリュージョンがほぼ同じであれば、その歌は読む人の感性にピタッとくるだろうし、読みてが選者であればその歌は選に入るだろう。
つまり,短歌を詠む、読むという行為におけるイリュージョンとは詠者、読者の教養、身の丈と解釈できるのではなかろうかーー
「いろいろな要素で選別します。しかし、私にも歌にたいする好悪の気持ちがあります。 最後どちらかと言うときには自分の好きな方を選びます。」
ある選者の言葉を思い出す。
最後の決めては、自分のイリュージョンだということだろうかーーー
日本女子大の名誉教授で万葉集の研究家である青木生子先生の講演「うた と わたし」を聴く機会があった。
ご自分の人生と関係のあった歌を数首例に引いてのお話だったが、最後の言葉が心に残った。
「以前に読んだことのある歌が、その時にはさして心に響かなかったのに、記憶に残っていて、ある日突然読者の心に生き生きと甦る。
ある日、ある時読者と共鳴する。これが詩歌というものなんだろう。」
これも詩歌にまつわるイリュージョンなのであろう。
読者の心にイリュージョンとして住み着き、いつか息吹を吹き返すような歌を詠みたいものだ
二番目のキーワードは「環世界」である。
そして、これに関する章を読むことで、私自身感じていたあることに光が当たった気がした。
『昆虫と人間では目に見える世界が違っている。
多くの昆虫には人間には見えない紫外線が見えるが、人には見えない。
しかし、しかしモンシロチョウには赤い色が見えない。
つまり、客観的な環境は一つしかないけれど、そこに生きる動物主体の一つ一つにはそれぞれに独自の方法で世界を見、自分に意味のある主観的な世界を作り上げている。ヤーコブ・フオン・ユクスキュウルが指摘した環世界である。』(P、40,41)
このことは人間どうしでも言えることだと著者は言っている。
『人間は実に多様なイリュージョンを作りだし、それによって過去から現在に至るまで、 そして世界のどこの土地ででも、じつにさまざまな環世界を構築している』(P、42)
私はテレビや写真集で名所という場所の風景の画像をほとんど見ない。
理由は、そこに写し出されたものは、撮影者や企画者、ディレクターなどが好ましいと思って撮ったものである。 つまり、彼らの眼鏡で選択した風景である。
しかし、同じ風景でも、もっと違う視点もあるのではないかという思いであり、それを見た記憶があれば、実際に自分で眺めたときに、彼らの眼鏡で左右される見方をしてしまうことにならないかという危惧からである。
また、ツアーなどでどこかに出かけて、風景を見る。
「素敵だ」「すばらしい」と口々に皆が言う。
こんな時私は思う。
「みんなどこを、何をすばらしいといっているのだろうか?
みんな何を見ているのだろう?みんなの言うすばらしい対象は同じだろうか?」
どうやら、私はむつかしい理論は抜きにして、環世界の概念を感じとってきたようだ。
こんなことを書きながら、今私の頭に浮かぶのは、かの有名な哲学者デカルトの
「コギト・エルゴ・スム」(わたしは考える。だから私は存在する」である。
この論法を借りて環世界を言うならば
「私が見る。だからそこに私の世界がある。他人の見た世界、それは私の世界ではない。」 このことは風景だけに限られることではない。
人はそれぞれに自分独自の世界観、人生観を持っている。
そんな人の集合である国会が、烏合の衆の集まりのような体たらくを示すのは当然かも知れない。
しかし、人は、他人のイリュージョンを認め理解し、妥協点を作ろうとするイリュージョンも持っているはずだ。
それは、人類の長い闘争の歴史を学ぶことで、培われているはずだ。
よい政治感覚というイリュージョンの発揮が望まれる昨今である。
第三のキーワードは「多様性」「生きる論理」だ。
『生物多様性と言うとき重要なのは、種の多様性ではなく、生きる論理の多様性である と思う』(P、46)と著者は書いている。
ここで、生物の論理とは、ヴィールス ならヴィールスの、鳥なら鳥の、桜の木なら桜の木のそれぞれの生存の仕方、子孫の継続の仕方を指している。
人は、人以外の生物を、自分の利益のために利用することに注意を向けすぎ、他の生物の生存の価値をおろそかにしてきた。
それぞれの生物の存在を、そしてその生き方、生きる方法を理解し、尊重すること。
これこそが環境問題の原点であることを忘れてはならない。
人間と他の動物との違いについて著者は書いている。
『人間という動物は、自分が知覚できないものを「論理」で積み上げて、現実には認知 できないもの、そして現実からは抽出できないものをイリュージョンという現実に仕 立て上げてきた。これは一口にいえば人間の美学である.』(p、59)
最近、少年によるむごたらしい事件が相次いで起こった。
この少年たちの言動を知るとき、彼らに欠けているものはこの人間の美学であるような気がする。
成長の過程に置いて、人間らしいイリュージョンの持ち方を学ぶ機会に恵まれなかったのではないだろうかーー
美学を育ててやれなかった大人の責任でもあろう。
真の教育とは、知識を詰め込み記憶させるだけではない。
人間らしいイリュージョン、人間の美学「人生の意味」「生きる意味」「生きがい」「生きるに値する生活」などへの認識を持つ人間を育てるてることでもあると思われてならない。
最後に人間の論理能力と死の関係」「幸福感」についての著者の意見を紹介しよう。
『人間という動物には、著しく優れた論理能力がある。
それによって人間は「死」を発見してしまい、誰もが一生、大きな悩みを抱えること になったのだが、この人間の論理能力は、ほとんど何の客観的根拠もないのにさまざ まなイリュージョンを作り出し、それがさまざまな喜びと苦しみを生み出すことにな ったのだ』(p、117)
著者は言う。現世とあの世。宗教とそれに関連するさまざまな祭事や儀式などは死という現実を見たことから導き出されたイリュージョンだとーーー
『人間は自分の未来について論理的な推測や判断をし、それに従って自分の行いや状況
をえらぼうとする。
そして自分の欲求が満たされたと感じた場合、一定の幸福感をおぼえる。
それは幸福というものがつねにイリュージョンであり、どのようなイリュージョンを もつかは人によって異なるからである。』 (p、143,144)
「何が幸福か」は個々の人の環世界によって異なるというのだ。
これは言い換えれば、幸福は自分なりの生活感、価値観、望みなどをを持つことで、そこから導き出されるものということなのだろう。
私は、メーテルリンクの「青い鳥」の話を思い出している。
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