銀幕の中の旭のせりふ
お昼のテレビで小林旭さん出演のトーク番組を見た。
かって一世を風靡した「渡り鳥シリーズ」の中の場面がいくつか出てきたが、その一つの中で、旭さん扮する主人公が言った言葉が妙に心に留まった。
「思い出は普段は忘れていてたまに思い出すから思い出なんだ。
私は忘れたことはないから、これは思い出ではない。続いていることだ。」
モトカレにこう言われれば、女はみんなドキッとするだろう。
しかし、思い出となるものは、完全に忘れてしまったものではない。記憶の中に残っていなければ思い出ざれることはできない。
日常の生活次元では忘れられているけれど、脳の記憶装置の中に眠っていて、何かきっかけがあれば、覚醒して、生活レベルでの思考となる。それが思い出というものだろう。
人も長年生きていると無数の出会いや生活体験をする。
これらの中で記憶装置の中にしまい込まれるものと、そこにも入れられないで完全に忘れ去られるものがある。
また、同じ時に同じ体験をした人が複数いた時、それを完全に忘れてしまっている人と、記憶の中にしまい込んでいて思い出として取り出すことができる人がいる。
ある体験が、完全に忘れさられてしまうか、記憶の引き出しにしまい込まれるか、この分岐点に働く要素。条件は何だろうか?
ちなみに、私の記憶の引き出しにあるものの多くは花や食べ物に関するものが多い。
それ故、私の思い出は花で喚起されるものが多い。
家焼かれ辿り着きたる家(や)の庭の
夕闇に白しドクダミの花
その白のはかなさが寂寥つのらせた
疎開中我が家は一夜で焼かれてしまった
祖父の家4家族居ても深かった孤独
疎開して初通学の日姉と歩む
野辺に咲きしは紅アザミ一本(もと)
あの日からアザミの歌が愛唱歌
疎開屋は本家の離れ屋そを囲む
スモモの花の満開の白
花が実になる前に戦は終わりました
戦果て街家に移る山道に
木の香蒸れ満ちノイバラの赤
草鞋履きバス通わぬ道を母子は歩いた
4ヶ月慣れた木の香も今日が最後と
庭の木の根方に咲きし赤小花
ゲンノショウコを植えしは誰ぞ
ドクダミもゲンノショウコも貴重な生薬
腕いっぱい紫菖蒲を抱え持ち
母は連れそう通園拒否児に
「お世話をば掛けます」と花は先生に
感謝のしるしでしたか
川の辺に金木犀の香りしは
ときめき秘めたる通学の道
ときめきは進路選択に負けました
白薔薇五月の雨に濡れそぼつ
元彼ならぬ男葬す日
生きていたら私の運命変わっていたかも
レンゲ咲く道の果てには心病む
夫の宿る病院ありき
過剰労働、人間関係が働き盛りを蝕みました。
Beside the path , RENGE flowers were in full bloom .
In front of the path , there was the hospital
whereb my husband was in .
He was tired with hard works and human relations in office .
His mind was spoiled .
It was the spring thirty yeas ago .
It was one of our life crisises .
He is lively now .
He is enjoying his second life everyday .

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