七十路半ば淑美の独り言 

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zoom RSS 日本の歴史を読み詠む58  <江戸幕府6>農政の論理 。貿易と禁教 

<<   作成日時 : 2017/04/18 15:29  

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< 死なぬように生きぬように >
これまでの郷村掟をまとめて1603年農民支配の方針を発布す
       関東総奉行」の名で発布した農政の論理


この農民支配原則は各地の幕領で地頭代官役人への農民の弾劾を激化させぬ


代官と百姓の対立において家康おおむね調停者なれど階級的立場は封建領主なり


江戸幕府の初期の農政の眼目は「東照宮上意」にあり
  
     「郷村百姓供をば死ぬように生きぬようにと合意致し収納申し付ける

一年の入用、作食を積らせてその余りを年貢に取るべし   


<慶長の検地>
新しい郷村掟のねらいは中世の農民の奴隷的支配を改め土地と工作についての権利を認める代わりに忠実な年貢づくりをさせること
       その為に確実な検地が必要だった


検地の目的は農民を土地にしばりつけ「本百姓」身分に固定させ年貢を納めさすことなり


代官頭伊奈忠次、大久保長安、彦坂元正は「3目代」と呼ばれ検地の衝にあたりぬ


幕府成立後の総検地で最も広範囲に行われたは1604年の「辰の御縄」なり
        石盛の一般化、村高の確定など検地基準の統一した制度的改新
         石盛(こくもり)とは、検地における田畠屋敷の法定の段あたりの見積生産高(斗代)の こと


慶長検地の目的は土豪給人の百姓化を促進し村落共同体の中核的階層とし村請制の主体とすること



  <貿易と布教>
1604年豊後の海岸に漂着した外国船ありリーフデ号なり

家康は生国来航経緯目的など訊き関東に回遊させぬ
 
       5艘の船でロッテルダム出航後時化に合い、バラバラとなりて漂着

家康砲手や船員の優秀な戦闘力と多量の軍需品に目をつけ送り返さず
        アダムスミスを側近とす。三浦按針なり


リーフデ号の積載品は新教国オランダとイギリスが日本貿易に介入する第一歩なり


これまでの日本貿易は新教国と敵対していた旧教国ポルトガルとスペインのみ


信長の時代には貿易とキリスト教問題は九州の大名の直面する問題だった


秀吉の代にはアジア諸国スペインポルトガルとの貿易は統一政権の富を支える重要な支柱だった


ポルトガルスペインは日本人をローマ法王に臣事させ国土国民を征服せんと望みぬ


秀吉は彼らが国王と教会の利益に奉仕するため貿易と布教を不可分としたるを知りながら禁教に踏み切りぬ


秀吉考えぬ「キリスト教は日本の社会道徳や習俗にあわない」と


家康はキリスト教に好感もたざれど実利上の利益考え手心加え


慶長15年〈1610年〉日本国内のキリスト教徒は70万名という


マカオに貿易拠点開いたポルトガル中国産生糸を日本に輸出し莫大な利益


家康は資金に困る商人に生糸一括購入の仲間作らせ輸入生糸の標準価格決めさせぬ
         糸割符仲間


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糸割符法の目的ははポルトガル商人に打撃与えるのみならず外国貿易の独占と管理の方向を推進すること

長崎奉行に生糸や鉛を優先的に買い取らせ国内の原料不足すれば売りさばきぬ
         家康の先物買いは商売上手


家康は富強の助けとなる新技術の輸入も積極的に行いぬ

         スペインからは鉱山技術など


囚われの宣教師ヘロニモ江戸にフランシスコ派の教会建てぬ
         関東地方への布教の第一歩


1609年日本に漂着したドン・ロドリゴは家康に三か条の要望伝えぬ
         キリスト教を保護すること、スペイン船に寄港地与えること、
         オランダ人を追放すること


家康オランダ人追放は聞かず2条の代償に鉱夫50人を要望す


ロドリゴは家康提供の船にて帰国1612年スペイン国王はビスカイノを日本に派遣
 
        鉱夫派遣は無視し贈呈品を捧げぬ


スペイン国王の真意は日本近海の「金銀島」の探索なり


家康は東南アジアの諸国諸都市とも親善外交しぬ

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南蛮諸地域との御朱印船貿易は貿易将軍の個人的嗜好品を媒介として行われぬ
 
       家康は奇楠香を珍重す。 奇楠香とは伽羅のこと

朱印船の紀行先は30地域そのうち国書の往復行われたは9か所

異国渡航朱印状は所定の貿易家に限り所定の地域だけで使用されたり


  <朝鮮、琉球、蝦夷地>
秀吉死後家康ら5大老は日本軍の引き上げを支持


十数万の兵動かし前後9年にわたった朝鮮侵略の講和は対馬の宋氏に指示す


宋氏国書偽造した末にようやく「巳酉条約」結ばれぬ(慶長14年、1609年)


そののち宋氏と家来柳川氏対立し「柳川一件」起こりぬ


家康琉球は薩摩の島津氏に委任する方針取りたり


琉球は戦国の中頃より島津氏に付属すれど中国を宗主国とする関係も続きおり


1608年島津の「琉球入り」決行されぬ 島津家久の代


島役人島民率いて抗戦すれど鉄砲に圧されすべて鎮圧されぬ


尚寧王講和を申し出島津軍につれられ薩摩に送られぬ


島津氏は明との通交、貿易に利せんとして捕虜として扱わず賓客として厚遇したり
        明との間の仲介者として役立たせる魂胆なり


島津義弘琉球平定を家康に報告し家康は「御内書」にて島津氏の琉球支配を認めぬ


平定2年後島津氏検地行い12万3700石と確定
       大島、徳之島、鬼界島、沖永良部島、与論島を直轄地、残りを琉球王領

蝦夷も「化外の地」と呼ばれていたが幕藩体制の一環として登場したはこのころのこと


若狭加賀越前など北陸地方の商人出自の館主ら蠣崎氏に臣従
         蝦夷地南部の沿岸に居住地作り館(砦)を作り館主となった
         蠣崎氏の開祖は若狭源氏武田信広


1590年蠣崎安広は秀吉から蝦夷の国王として認められぬ


1599年家康に臣従し松前氏と改姓し「黒印状」受けぬ
        アイヌとの交易には松前氏の許可が要することを保証

松前藩1万石の格付けされ中央権力から体制的に護持されぬ


         <禁教への道>
キリシタン大名有馬晴信の朱印船がマカオにとう留中乗組員とポルトガル人喧嘩す


マカオ当局はマードレ・デ・デウス号派遣し朱印船の寄港中止を申し出ぬ


家康は真相究明のため船長を召喚せむとすれど遁走拠ってこの船を撃破す


伊達政宗は家臣支倉六右衛門常長をスペインに派遣し布教認める代わりにメキシコ貿易の
開始を要請す〈1613年)


1609年オランダ商館1613年にイギリス商館が平戸に開設され国内どこででも取引すること許されぬ


オランダは1624年台湾を占領根拠地として日本貿易を急速に発展させぬ


イギリスは根拠地持てず1623年平戸の商館を閉鎖


ポルトガル宣教師は信者獲得のため幕藩体制の封建的秩序に入り込み封建社会を側面より支えぬ


家康はイエズス教会に救い難い不信感もちおり


本田正信の家来岡本大八は有馬晴信に対しデウス号材料に不正はかりぬ


イエズス会がこの事件に関与したこと知った家康は晴信の旧領九州有馬領に禁教令発しぬ          
教会を破壊

3月家康は第一回の禁教令発しぬsの範囲は駿府と江戸を主とし京都長崎その他九州の若干の地域なり


家康ノビスバン総督への復書の中で「布教諦めるよう」応えぬ
日本は神儒仏三教一致の国故キリスト教はこれに対立するもの

1613年全国にわたる禁教令発布これ第二回の禁教令なり
金地院崇伝起草の「バテレン追放令」なり


この中にてカトリック教国の日本侵略の野心を指摘せり


禁教の総奉行命ぜられしは大久保忠隣なり諸大名追従す


禁教令発すれど家康は布教と外国船の入港通商は別物との方針なり

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