七十路半ば淑美の独り言 

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zoom RSS 日本の歴史を読み詠む57<江戸幕府5> 将軍宣下、江戸城拡張、町づくり、水路ーーー

<<   作成日時 : 2017/04/01 14:52   >>

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        <将軍宣下>
1603年1月21日家康征夷大将軍に補されぬ


2月13日伏見城にて後陽成天皇の勅使より将軍宣下受けぬ
   
      右大臣、征夷大将軍、源氏長者ーーーーに任じられ 牛車、兵仗許されぬ


3月21日二条城に入り25日衣冠束帯で参内し将軍拝賀の礼行う


将軍宣下の礼として天皇親王女院らに銀、小袖など贈りぬ
         天皇に銀千枚など

家康は武家階級統率の為武家の棟梁征夷大将軍に拘泥


信長は右大臣秀吉は関白太政大臣として政権掌握したれど


家康は冷徹に武家政治家の筋を通した頼朝に私淑しぬ


武門の棟梁は貴種でなくてはと系図づくりに執拗に努力
        貴種とは尊い血筋、具体的には皇孫

貴種であることは天皇と一体化し委託統治を論理化し武家政権を合理化すること


家康は広橋兼勝,勘修寺光豊を武家伝奏に任命し朝廷の目付け役としぬ


天皇の政治的君主としての実をはく奪し宗教君主としての機能を幕府体制の強化に利用


家康には多くの子息あれど秀忠を世子とすること大久保忠隣強く推したり


家康は秀頼の処遇に心くだけど将軍と大名の差は決定的なり

        <秀忠将軍を継ぐ>
1605年4月将軍職を秀忠に譲りぬ


早々の将軍職譲位は「政権を子々孫々徳川氏が世襲する」ことの内外に宣言なり


「天下は回り持ち」の権力闘争と下剋上を防ぐことを意図

秀忠将軍就任は豊臣の政権回復の執行を否定することなれば豊臣側憤懣強し

         
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<江戸城拡張>
江戸城拡張は将軍の城としての威容を整えること

      1606年,7年に大掛かりに行われた

拡張工事は家臣団の軍役とするが慣例なれば諸大名の将軍への軍役の一環なり


軍役は諸大名の財力を消費させ将軍への忠誠心測る勤務評定なり


石材運ぶ石船差し出すこと命ぜられたはほとんどが西日本の大名
     
    島津忠恒は石船300艘用意したり


石材は石高に応じて課されぬ総計59万3600個集められしとか


各大名石高に応じて人夫、水手なども負担させられぬ


縄張りの責任者は藤堂高虎にて工事は幕府の普請奉行の監督下に進められぬ
        本丸、天守閣などに分け諸大名が分担

石材の産地はは小田原真鶴伊豆半島の全域沼津地方に及び船で運搬す


伊豆石は堅くて火に強い安山岩玄武岩で石垣造りには適したり


石垣の間に積まれる栗石は武蔵の国中沢(深谷)から利根川下って江戸へ運ばれぬ


漆喰の原料石灰は武蔵の国多摩郡青梅より馬背で宿継ぎで運ばれぬ
        この道が青梅街道


慶長11年の工事外郭の石垣が完成9月に将軍秀忠本丸に移りぬ


12年にも続いた工事は天守閣の完成と堀普請にて天守閣は関東の諸大名


堀普請は伊達政宗を初め奥羽信越の諸大名の当番なり


天守閣石垣は高さ10間広さは20間四方5層の天守閣なれど明暦の大火で焼失


慶長15〜16年に西の丸の修築19年には大掛かりな石垣の修築されぬ


江戸城の内部外部ともに完成したは3代家光の寛永12年(1636年)


譜代大名や旗本の屋敷が草分けの武家地に参勤交代の外様大名の屋敷加わり武家地が
                                   江戸の土地の3分の2まで拡大す


慶長8年諸大名の「お手伝い」にて町づくりに着手
       千石につき人夫一人差し出す


神田山を切り崩し海面を埋め隅田川河口の豊島の洲崎に連なる下町を造成


江戸湾の干潟次第に後退し現在の浜町以南新橋辺に至る下町一帯開かれぬ


道三堀と平川の延長の堀川に日本橋掛けられて里程の原標としぬ


城下町の中心は道三河岸から日本橋方面に移されぬ


江戸城の外郭内部辺りにあった寺社も代地与えられ郭外に移住させられぬ


江戸の町は平安京の町割りを支えていた「四神相応」の宗教思想を支えとしぬ
   
     四神相応の地とは天上の四方の神青竜=東、朱雀=南、玄武=北、
                白虎=西に相応した最も尊い地層をさす

江戸の景観設計にも注目すべきものあり低地から丘陵地望む景観の設定に方位を利用


眞東から北寄り約21度の方角が基準となった同方向の通町のどこからも富士山を望むことが出来た
         特に駿河町は真正面から富士山を望む方位にあり


江戸湾に望む下町の低地からも眺望をほしいままにできるよう景観が設定されぬ


城下であった外郭内部の町家は寛永11年の江戸城工事ですべて日本橋方面に移転されぬ


寛永11年〈1634年〉江戸の町方人口は14万8719人なり


城下町としての江戸の特徴は武家地を中心とする山の手と町人街を主体とする下町が
                                 江戸城はさみ載然と区分されていること


        <江戸商業の起こり>
江戸城修築に使用された木材石材の流通が江戸商業の興起を促進したり


各地より集まった人夫諸職人の為の飯米として多量の米や生活必需品が売買されぬ


江戸に移住した漁民が集い住んで江戸内海漁業に技術的な影響及ぼしぬ


佃島・本船町・本船横町・安針町が「四組問屋」として幕府上納を名目に漁獲物の営業許されぬ


魚市場(魚河岸)の起こりは芝あたりの土着の漁師の取引なり


青物市場は神田青物市がその中心とか、最初は近隣の百姓ら集まって市開きおり


商家できそこに野菜類の委託販売させていたのが発展して問屋となりぬ


幕府、諸大名旗本は邸地内に菜園持ちいた故に魚類のような特別処置は必要ならず


       <伊勢店の起源>
「江戸名物伊勢屋稲荷に犬の糞」とあるごとく伊勢出身の商人多かりき
       
 稲荷は商売の神様、野良犬の糞
        近江商人の江戸くだりもおおかった

商人は生活物資を上方からの「下りもの」に依存していた


大阪の豪商鴻池新六幸元も大阪より酒樽運びて商売したり
        「下り酒」の元祖なり

江戸の伊勢商人の草分け「伊勢屋」の商品は木綿販売が起こりなり
        大伝馬町が伝馬役の代償として許可された


振興の問屋商人は仕入れ問屋として成長した江戸に出店を持つ遠国商人

       
          <伝馬と水運
家康は品川はじめ東海道の多くの宿駅に一日当たり伝馬36匹ずつ提供させ〈1601年)代わりに地子免除


1602年には中山道、奥州街道、1603年には北国街道にも伝馬宿駅の制度しかれぬ


家康は東海道を幹線とし、中山道を支線とする東西交通網を意図していた


伝馬掟印状無くば傳馬を出してはならぬ


1604年日本橋を基点とする東海道中山道など主要街道に一里塚築かせぬ
  
       榎又は松を植樹


         <文禄の利根川変流工事>
江戸時代は日本の交通史上誌以上交通が全国的に目覚ましい発展遂げぬ

        陸上より輸送力大きく、運送費が低廉
        海上の方が河川湖上より安かった

関東の河川交通は利根川が中心だったが家康関東入部以前の利根川水系は現在とはちがった。


利根川隅田川水系、奥入瀬川大日川水系鬼怒川常陸川及び香取流海水系は元は別々の推計なり


1594年家康の四男武蔵の国忍城主松平忠吉は現在の利根の幹流を作りぬ
         南流する利根川を川俣で締め切り廃流とし東流する支河会の川に流しぬ
         以後多くの変流行われぬ


家康その翌年に古戸(太田市)より下五箇(板倉町 )まで直線で20数キロに堤防築かせぬ
        高さ15尺〜20尺、敷幅15間、馬踏(土手道)3間ないし5間


1609年東北諸大名の「お手伝い」にて下総銚子港から利根川に通じる航路開かる
        奥州からの廻船が利根川小名木川を経て江戸へ到達


後寛永、承応、文化年間と拡張工事繰り返され利根川の水は銚子で太平洋にそそぐようになりぬ
         

家康は江戸を中心とした利根川水系の整備はかりだいたい寛永年間に一応目的達成しぬ


目的は江戸湾に注入していた利根川を鹿島灘に変流させ結果的に関東各地の河岸問屋から川船が水路江戸湾内へ乗り込むことが出来ること


家康は開幕以後関東以外の各地の重要な河川の改修や水路の開削行わせたり
  
      例えば長崎の貿易商人角倉了以に慶長12年富士川の掘割を命ず

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