七十路半ば淑美の独り言 

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zoom RSS 日本の歴史を読み詠む56<江戸幕府4>江戸の町づくり、 関ヶ原の戦い、戦後処理

<<   作成日時 : 2017/03/21 14:47   >>

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<江戸城普請と武家屋敷>
家康は秀吉の朝鮮出兵に参加するため京に向けて出発〈1592年)


その不在中西の丸を主眼とする江戸城修理工事始まる

譜代大名、旗本が多数動員された


城内にありし寺々「局沢16寺」は城外に移転させられぬ


この城普請は徳川氏家臣の軍役のみで行われぬ


入国当初の家臣団は万石以上は支城駐屯万石以下は陣屋居住とか


徳川氏の行財政担当の重臣層はまず生活の中心を江戸に置きぬ
井伊直正、青山忠成など


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江戸城守護する屈強の地に侍大将や奉行クラスに広大な屋敷地を割り当てぬ
屋敷そのものが小さな城の機能を持たせる


江戸在番の中下級家臣の集住は組屋敷の集団居住より始まる

                <江戸の町づくり>
まずは船入堀(道三堀)作り海上からの重要物資を江戸城に搬入


家康思い切った都市計画の意欲ありて入国前より上水道の建設始めたり
井の頭池(三鷹市)を水源とする神田上水


道三堀沿いに四日市材木町、本材木町、船町などなどの城下町出来ぬ
これ最初の町人町なり


小名木川堀開き上総国行徳から塩を運び込ませぬ


道三堀の開堀と並行して低湿地の埋め立てや縦堀、横堀も作られ橋を掛けぬ


最初の町割りは「本町の町割り」で道三堀に沿った常盤橋の西側地域なり


街並みは表通りに面して一区画60間たいていは道路を挟んで一つの町

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町年寄に起用されたのは皆徳川氏の家臣で町人になった人々
樽屋、奈良屋、喜多村など
町づくりや行政に参加し身分的な特権を与えられていた


江戸城西丸の築城工事で出た揚げ土で日比谷入り江の埋め立て行われぬ
1592年


日比谷入り江消滅しその後に掘割して作られた八代州(八重洲)河岸に添い内町できぬ


内町とは「内の町屋敷」の略で武家屋敷の消費賄うために門前に片町としてできた町


家康は関東各地より行商人呼び寄せ日本橋神田辺に連雀町開かせ店舗商業を振興


道中傳馬役は北条氏の実績踏まえて促進させぬ


道中傳馬役や技術労働提供する役も国役として集められたり
国役を負担する町が国役町

国役町には職人町多く60余町あり紺屋、鍛冶屋、大工、鋳物屋など

<朝鮮侵略と家康>
秀吉は朝鮮を入貢させそれを先導として明を征討するつもりなり


朝鮮出兵の動員は秀吉を頂点とした全領主の封建知行体系なり


秀吉は南蛮貿易独占し朝鮮明との直接取引を意図しぬ


領主的土地所有制を朝鮮明にも拡大すること望みぬ


渡海の陣立ては小西行長加藤清正らを先鋒に先鋒10万人
食糧48万人分整えぬ


家康は動員の為安定した領国経営が破壊することを恐れたり
巨大な人員、物資の消耗を心配

秀吉は自ら渡海すること望みしが利家、家康は反対し諌言す

緒戦勝ち戦なれど朝鮮民衆の抵抗「唐人一揆」起こり苦戦続く

1593年日本側に講和の気運高まり8月将士に内地帰還命ず
秀吉大坂に引き上げ。秀頼生まれる

家康1594年2月入京し5月までゆうゆうたる日々過ごしぬ
終生施政のモデルとした「吾妻鏡」の講義受け終え
        柳生宗厳より新陰流兵法の奥義伝授され砲術馬術も極めたり


秀次は謀反疑われ高野山に追放自殺す28歳なり


家康は秀頼への忠誠誓書を小早川隆景、毛利輝元と連名にて提出


「乗り物御赦免の衆」「5奉行」の 原型この頃に作られたり


家康は5大老の筆頭の地位を得秀吉の信任を背景に諸大名に恩を売りぬ
これにより政治的地位を強化


大名中多数を占める外征反対派の良識の代表者としての信望集めぬ


1598年3月秀吉醍醐の花見8月に死す


秀吉言いおきたり「これからはすべて家康利家の指揮を受けること」

<関ケ原の戦い>
秀吉は「公儀」権力そのものなればその死は豊臣政権の瓦解と消滅を意味する


下剋上の権力闘争あちこちで起こる


秀吉の死の翌日三成は家康を討たむと企てたり


秀吉が与えし「政権の代行」利用して家康が豊臣政権の後継者になること恐れぬ


1599年秀頼は前田利家従え大阪城に入りたり


家康の居る伏見城と秀頼の大阪城と政局に二つの中心生まれぬ


家康は秀吉存命中の血判誓詞破り諸大名と政略結婚行いたり
知行の宛行、加増なども独断に行う


加藤清正福島正成黒田長政ら武功派は石田三成倒そうと企めど 三成家康邸に逃げ込みたり


利家死し三成失脚したれば家康の独り舞台なり


北の政所京に移り家康は西の丸に入りたり


前田利長ら家康討たんとすれどかなわず母芳春院を人質として差し出しぬ


宇喜多秀家は備前に毛利輝元は安芸に黒田除水は豊前にと諸大名帰国す


石田三成は家康打倒の執念捨てきれず上杉景勝と東西より挟撃せんとす
上杉は越後より会津に転封していた


1600年家康大阪城を出て伏見城に入りぬ


家康は譜代の老将鳥居元忠を伏見の守りに残し江戸に帰城す7月二日


道中三成に襲われ危機に直面することもあり


帰城五日後「150条の軍令」発し秀忠先発にして会津征伐始めぬ


家康は21日に出発し24日下野国小山で三成の挙兵を知りぬ


三成は家康の江戸出発を聞き討伐決行を決め毛利輝元を西側の盟主となす


7月17日付にて「内府違いの条々」13か条を発し家康を糾弾す


三成は家康に従う諸将の妻子を人質として大阪城に収容
細川ガラシャ抗して自殺

7月19日島津、小早川ら1800余人が守る伏見城を攻撃鳥居元忠以下玉砕


三成は上杉、佐竹、真田らに家康の留守をねらわす


家康諸将に「会津征伐と西征のどちらを選ぶか」問えば皆西征と応えぬ

掛川城主山内一豊の主唱で諸将東海道筋の城開け渡したり
11年ぶりに旧領の諸城回復

<関ケ原の戦い>
福島正則池田照正先鋒に西上させ自らは8月5日江戸にもどりぬ


三成は十日に大垣城に東軍先鋒の諸将も14日に清州城に集結


家康は上杉牽制して動かざれば正則じれて言う「我々を劫のたてかえにするか」と


福島黒田池田加藤藤堂ら外様諸将は岐阜城攻撃に出動し関ヶ原の前哨戦始まりぬ


秀忠は宇都宮発し中山道を進めど黒田父子の抵抗難く関ヶ原決戦に間に合わず


家康は岐阜城の陥落後9月1日に江戸を立ち9月14日に赤坂に到着
出発前鹿島神宮、浅草観音に祈願す


赤坂到着の日吉川広家和議申し込み小早川秀秋脇坂安治、朽木元網も内応


家康一隊を大垣に残し多勢は一路大阪に向かう策を西軍に流しぬ


西軍の諸将は関が原に向かうも東軍既に布陣し、直ちに追撃す


家康関が原に到着桃配山 に金属の馬印立てぬ


関が原は前夜の大雨に続く小雨降り続き50メートル先も見えぬ濃霧なり


戦闘午前8時に始まる西軍8万2千東軍7万5千なり
実際位に戦闘に参加した西軍は3万ほど


西軍の主力は石田小西島津なり昼になりても戦局進まず


なかなかに動かぬ小早川に業を煮やした家康松尾山に鉄砲撃ちかけぬ


秀秋決心固めて大谷吉継の陣に攻め込み吉継は自決
             吉継はライ病で崩れた顔を見せるを拒み地中に亡骸を埋めさす
 

石田宇喜多小西の諸隊も次々崩れぬ


石田の陣は正面側面より攻められ善戦するも全軍遂に壊滅三成は西北の山に逃げたり


島津軍1500名が200名になり義弘は馬印おり旗印捨て伊勢路へと逃げたり
これ「島津の背進」なり


天下分け目の戦いは午後2時ごろ東軍の完勝にて終わりぬ死者西軍だけで8千余名と


日和見していた長塚正家、長宗我部盛親、毛利秀元らはいずれも逃亡したり


<戦後処理>
9月27日井伊直政本田忠勝ら6名に命じ論功行賞の調査行わす


まずは西軍にくみした大名87家の領地414万6200石を没収3家の領地207万5490石を削りぬ    


諸大名総石高1800万余石の内に三分の一強が無主空白地となりぬ


宇喜多秀家、長宗我部盛親、石田三成などは減封されぬ


没収領の一部は徳川氏の直轄地に編入す東軍に属して軍功のあった大名の加増にされぬ


かくして豊臣系の大名の多くを取り潰しあるいは遠ざけその後に直轄地、徳川一門、譜代大名を配置しぬ


豊臣秀頼は摂津河内和泉65万石の1大名に転落


武田信吉を水戸に松平忠吉を尾張に結城秀康を越前に配置これ水戸藩尾張藩越前松平家の成立なり


徳川氏の一門及び井伊直政、本田忠勝、酒井忠次、榊原康正ら譜代大名が尾張美濃伊城に城に城に勢越前近江の諸国に配置されぬ


この配置の意図は豊臣氏の勢力圏と接する地域を押さえるにあり


関東入国後豊臣系大名で押さえられていた家康の旧領も徳川系大名に移されぬ


関が原線の論功行賞に名を借りて「大名の鉢植え」行われたり
大規模な大名の改易、減封、加増、転封が行われたこと


譜代大名の城は徳川氏より預けられたもので江戸本城に対する支城の役目果たすものなり


支城には城付きの大砲小銃城米城金を積み立て一朝有事の際に備えたり


蔵入地は直轄地や譜代大名の城に兵糧米を供給したり大名旗本の恩賞に役立てるもの


蔵入地は生産力と商品生産の進んだ政治交通上の要地にあり


蔵入地と支城を組み合わせ外様大名の牽制に充てる役目もあり


蔵入地の支配は徳川氏に直属する大官に行わせぬ


慶長年間〈1596〜1615年)の徳川氏の幕僚総額は関東の約100万石に、関東以外の1002,30万国をくわえてほぼ2百3,40万石もありぬ


直轄地=天領は江戸時代中期に4百数10万石ありぬ
徳川政権の直接の基盤の関東と豊臣氏の本拠だった近畿に集中

<重要都市のy直轄化。>
家康は畿内の重要な商工都市の直轄化も押し進めぬ
和泉国 の堺、摂津国 の尼崎、、京都など

京都を畿内流通面から掌握するための拠点とする方針


慶長10年までに奈良、山田(伊勢)、伏見、長崎が直轄化され13年には駿府も


都市の商工業の機能を握るため都市の門閥商工業者を統制下に組み込み、徳川政権の経営政策を担当する代官的役目与えぬ
代官的豪商なり

堺は鉄砲の生産地として長崎は南蛮貿易朱印船貿易の拠点として重要なり

関が原以後近畿の諸都市の直轄化急いだは豊臣氏と豊臣系大名の弱体化進めるため

重要な鉱山、山林地帯牧場などにも矢次ばなな直轄化進めぬ
佐渡金山、石見の銀山、木曾谷の山林

<鉱山開発と貨幣>



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大久保長安進言す「領民困らせず金銀得るには鉱山の開発重要」と


長安は元武田の蔵米衆(代官)なりしが後徳川に仕え「関東18代官」を統率したり
直轄地の支配、知行割、検地など行なう


家康は鉱山を天領並の直轄地となし奉行代官に支配させたり

長安奉行になりてより金銀の産出増加しゴールドラッシュの感あり

その支配地は佐渡金山、石見銀山、伊豆の土肥、大仁、縄地、湯ノ島、生野銀山、
陸奥南部の金山、甲州の黒川銀山

家康は山師を大いに信頼し「山冷53か条」定めぬ

大森銀山の当時最高の銀採掘法は天文2年〈1533年〉中国より導入されたもの
銀の分離法は水銀アマルガム法なり

家康は大量の銀を輸入し、長安を通じ各鉱山に交付したり


長安は「天下惣代官」「日本一のおごり者」とも呼ばれぬ


長安は東海道中山道等の修理傳馬制の整備、江戸城、名護屋城の建設にも関与


鉱山の金銀の上納は奉行代官の請負制にて残りは山師と山分けできる方法
奉行代官の不正の罠になりがち


家康は大衆通貨として中世以降通用していた銭貨に対しても抜本的な改革行いぬ


寛永柴銭を通用禁止として金1両=鐚銭4貫文=銀50匁


元和通宝や寛永通宝を発行すれども公定銭貨による流通維持できず


幕府の最終的な銭貨対策の仕上げは寛永8年〈1669年)の寛永通宝の大量発行
寛永銭と古銭の混用を禁止

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