七十路半ば淑美の独り言 

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zoom RSS 日本の歴史を読み詠む55<江戸幕府3> 豊臣政権との駆け引き

<<   作成日時 : 2017/02/28 15:40   >>

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<小牧長久手の戦い>

柴田勝家秀吉の進出に対抗し賤が嶽の決戦で敗北す


秀吉は諸大名の転封と本城以外の支城の破壊命じぬ


大名と領地の結びつきを立ち根無し草にして服従させるがねらいなり


秀吉は本願寺教団の本拠たりし石山に大阪城築きぬ
    本丸二の丸三の丸合計の周囲3里8丁(12キロ)


家康は政権遠のいたこと自覚し秀吉の全角制覇の波に備えなす


小牧長久手の戦いには秀吉家康間に心理戦外交戦あり


それぞれに同調者集め全国的規模の包囲戦形成


織田信雄家康に援軍求め戦線は北伊勢で始まりぬ
       秀吉軍10万、家康信雄連合軍1万6,7千人


小牧山の戦線動かず持久戦池田恒興三河攻めを企画す
       三河は家康の本拠なれば攻めれば家康は引き返すだろう


情報入手した家康は長久手で撃破し恒興、長可戦死す


長久手の役は家康が秀吉と互恵以上の戦いにて以後の家康の政治的地位高めぬ


滝川一益は九鬼義孝の水軍誘い蟹江城攻めるも徳川軍の急襲に退去す
        尾張西南部の城


戦後秀吉信雄の講和なれども家康は援軍の立場なれば講和結ばず
        

家康の次男雄於義丸は秀吉の養子となる後の越前始祖結城秀康なり
        石川数正、本多重次の子二人人質として従う


家康は小牧長久手の開戦にあたり5か国の本城支城の軍勢を決戦体制に変えぬ
        農民の徴発も下令。農民は雑兵、陣夫に使われる

農民動員され農業生産荒廃、徴発された農民、雑兵に逃散するもの少なからず

        
           <秀吉への臣従>
小牧長久手の戦いは講和無い終結にて秀吉は家康を孤立さすこと考えぬ


孤立化作戦は家康の分国にも及び信濃の国上田城主真田昌幸秀吉に通じぬ


「沼田を北条に与え代地やる」と言いつつ家康実行せぬゆえ真田昌幸戦う
       これ神川合戦なり


昌幸の巧妙な戦いに徳川軍痛い敗戦受けぬ


石川数正きわめて少ない和睦派の代表なれど意見通じず出奔す


数正は家康が竹千代人質たりし頃より供奉し数々の忠孝上げ戦略家外交家として活躍
       出奔は家康に痛手なり


数正家康秀吉の間で進退窮まり出奔したるか、のちに信濃の国深志城8万石に封じられぬ
        深志城は松本城なり

        <軍制の改正>

数正の出奔は家康主従に大きな衝撃、軍制漏れるを憂慮しぬ
         水野忠重小笠原貞広も反旗翻したり


同年11月29日夜半大地震起こり余震十日あまり続いたり
         人心の混乱その極に達しぬ


家康軍事組織の機密漏えいを恐れ軍政を組織し直しぬ


軍制の改正には武田信玄の国法、軍法を参考としたり


直属常備軍の大番旗本備は3組より6組に増やされ侍大将8人とな
         動員できる5か国の雑兵は約43000名


1586年信雄岡崎に着いて秀吉家康の仲直りあっせん和議2月上旬


1585年秀吉関白に任ぜられ86年太政大臣、「豊臣」の姓名乗る


空襲征伐計画する秀吉には家康の臣従必要なり


家康説き伏せるため異父妹朝日姫を家康正室として嫁がせぬ


家康それでも上洛せぬゆえ母大政所を岡崎に下しぬ


家康はここ潮時と判断し大軍従え上洛しぬ


秀吉は家康に請いたり「正式対面時にはよろしく」と


諸大名の中には秀吉を侮っているものある故に箔付けのためなり


家康は秀吉の素直さに動かされ大阪城対面では恭順の礼つくしぬ


家康在京賄漁として3万石を与えられ他の大名並みの地位得たり


井伊直政に護衛され大政所帰京しぬ


       <小田原攻めと5か国検地>>

家康大阪より戻りて駿府城に移転1586年のこと


浜松に17年間住みたるが甲信両国の統治には不便なる故


1587年正月秀吉島津義久討伐に出発したり


5月には降伏させ九州諸大名の国替え行ない7月には凱旋


9月秀吉は大阪城より京都聚楽第に移りぬ


秀吉は後陽成天皇を聚楽第に迎え諸大名に天皇への忠誠を誓わしめぬ


「皇室領に無道なことしない。関白の仰せには違反しない」これ誓いの骨子なり


秀吉は家康仲立ちとして北条の上洛要請繰り返せど北条無視したり
        家康中に立ちていらだつ
       
北条は300万石の大領土持ち早雲以来5代95年の関東の覇者なり


秀吉は家康上杉景勝前田利家らと北条攻めの立案す


秀吉方の物資兵力ともに充実総兵力は22万余なり


北条との関係悪化に備え家康は5か国に統一検地行ないぬ
        福徳の御朱印

第1条は年貢2,4,5条には夫役についての定めなり


家臣団へあてがう知行地の年貢高を貫高から俵高に改めぬ
         一俵は籾の2斗俵
         貨幣から現物支給への移行


家康49歳小田原攻めの先鋒なり1590年2月


秀吉は3月京都進発し長期戦に備え諸大名に妻妾など呼ばせぬ
    
    商人、遊女なども呼ばせぬ


家康49歳2月10日に駿府城出発秀吉は3月1日京都進発


秀吉4月には箱根山を越え20万余の大軍が小田原城を包囲


秀吉従軍の諸大名に妻妾呼び寄せさせ自らは淀殿呼び寄せぬ
         長期戦覚悟し士気の鈍るのを心配し
         商人遊女までも集めた

八王子城、江戸城陥落し氏直は城を出て、父氏政らの命乞いすれど秀吉拒否
         氏直は高野山に追放される氏直は秀吉の婿故か
         八王子の戦いは北条攻め最悪の悲劇(ほとんどの婦女子が滝に投身


早雲以来5第95年の関東の覇者あっけない終焉遂げぬ

 
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            <江戸お御打ち入り>
7月13日家康の関東転封正式に伝えれれぬ江戸城を本拠とせよの命令も


家康に北条氏旧領の関東与え家康の領国を織田信雄に与える案なり


信雄は尾張伊勢の両国欲したれば秀吉怒りて下野に追放す


1590年8月1日家康隊伍整え江戸城に正式入城す
     
  8月1日は農家が初めて新穀を取り入れる八朔の日

江戸城は1457年太田道灌築城にて家康入城当時の海岸線は現在とは大いに異なりぬ
        現在の田町、日比谷、霞が関、新橋を繋ぐ線

現在の東京都の下町の大部分は遠浅の入り江か葦の茂った湿地帯だったとか
        井戸を掘っても出るのは塩水ばかり

家康の新領国は北条氏の旧領の6カ国で240万2千石

新領の周囲には旧諸大名豪族が蟠踞する現状なり
        常陸の国太田の佐竹義重。安房の国館山に里見義康など

         <家臣団の知行割>
家臣団の知行割担当する組織人員の総奉行は榊原康政


知行割の基本は「1万石以上の上級家臣は江戸から離れたところに下級家臣は江戸付近に」


徳川氏の蔵入れ地は江戸付近の諸国に集中


1万石以上の武将が北条氏の支城に入り1万石以下の直属家臣と呼応して
          
           新領国の強固な防衛線を構成

徳川氏は基本的には北条氏の支城制の構造を模倣継承
         14松平等


これにより譜代上層の徳川支族に対する優位が確立されたり


知行制に秀吉の「御上意」生かされぬ


家康の関東移封そのものが豊臣政権の全国的な大名転封の一環


北条氏の直轄地伊豆相模は主に徳川氏の蔵入地となしたり


東部周辺への配置は佐竹里見ら敵性大名への牽制体制なり


1万石以下の直属家臣団は江戸から10里ないし20里以内に配置されぬ
 
       これ旗本の前身なり

武田氏の海賊衆北条氏の遺臣を船奉行に任じ三崎番所の警衛とす


江戸付近に蔵入地集中の目的は江戸城の兵糧米と城下の需給の安定を確保するため


城付き蔵入地は関東各地の支城の軍事的機能支えるためのものなり
          支城消費分を除いての子らは江戸に回送されぬ


蔵入地は6カ国総石高の約40%、100万石前後なり


家康の入国を境に石高で知行示すようになりぬ
それまでは貫高、俵高


入国当時の知行宛行は所付けともななわぬ空手形もありぬ


改めて検地行い所付けと石高表示による知行わたしたり

        <検地と農民>

北条氏1506年を初めとして1589年までに41回の検地行いたり
         指出の形式をとる内検地。貫文制

北条氏村々の検地行い年貢を決めその他の諸税を賦課


6%の反銭(役銭)と雑税を吸収した貫高の4%の懸銭に棟別銭を加えて北条氏の三税


貢税の荷重に逃散した農民の逃げ場は一種の治外法権の市場や新宿


徳川氏検地の方針はまず自己検地の申告し、翌春徳川氏の検使の検地
        四割愛し六割の高増しをして知行高決定

石高制の特色は生産力を米の生産量に換算し石高にすること


年貢はもとより領主の土地領有も農民の土地保有もすべて石高で表現


村としての総生産力を決める結果検地を契機として「村切り」行われぬ
         支配の単位としての村の範囲や農民の本貫地を決める必要


本百姓身分を公認された上層農民を責任者とする村請制が成立


秀吉は小田原落城後黒川(会津若松市)まで出陣し奥羽諸大名の所領安堵新知
                  処分、没収、転封 等決す


秀吉帰京後奥羽には一揆などいざこざありぬ


家康は秀吉と伊達政宗の仲の取り持ちす


家康の関東転封は奥羽鎮圧に徳川役だてるための秀吉の企みなるか




「 淑美の夕食日記、献立紹介」もご覧ください

http://blog.livedoor.jp/yumebaba



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