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zoom RSS 日本の歴史を読み詠む54<江戸幕府2>海道一番の弓取り,五か国平定

<<   作成日時 : 2017/02/10 16:08   >>

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日本の歴史を読み詠む54<江戸幕府2>海道一番の弓取り,五か国平定

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            <遠州平定>

1568年信長は将軍義昭奉じて入京達しぬ


信長入京に北条上杉武田など勢いづきたり


信玄まず立ち駿府を無血占領家康は井伊谷ついて一挙に国境犯しぬ
       井伊谷は三河と遠江の国境

氏真の命で井伊谷守りおりし三人衆家康を先導しぬ


掛川城の氏真は城開け渡し伊豆に移りて今川氏滅亡す
       守護大名、戦国大名の家柄消滅


一五六九年末までに大井川以西の演習全土をほぼ経略成し遂げぬ


帰服忠誠を誓った今川の元給人はそれまでの地位を保証されたり


降伏せず滅びたるものの後には自己の一族、譜代の武将を配置したり


今川給人の統制は給人の負担する軍役を確保するにあり


検地行い定納高増せば大名の軍役の負担も強化


          <武田勝頼との抗争>
信玄1572年の正月陣中で迎えるも持病の肺肝悪化して戻る


4月12日53歳で急死す


9月家康は長篠城略取すれど高天神城奪われぬ
     信玄の跡目は勝頼なり

勝頼は大賀弥四郎内通させ大挙三河に侵入企てしが暴露


弥四郎は家康の気に入りなれど、家康怒りのこぎり引きの極刑にす
 
      見せしめなり

勝頼長篠城を厳重に包囲5月設楽原で合戦起こりぬ


家康信長の連合軍は3万8千、勝頼軍は1万3千にて戦う


家康陣地前に二重の濠柵作り鉄砲で狙い撃ちたり


武田軍壊滅的打撃受け勝頼は2.3名の部下と血路開き退却
      武田24将も多く倒れぬ


徳川軍は肉弾戦得意とし武田軍は騎兵戦術信長軍は軽装で弓鉄砲長やり持つ足軽軍団
      この戦騎馬と鉄砲の戦いなり


1578年家康安土に築城78年上杉謙信春日山城で急死す


家康は今川の家来関口義広の娘築山殿と結婚し信康生まれぬ


信康は信長の娘篤姫と結婚す



篤姫信長に親書送りぬ「信康築山殿武田に内通す」と


信長家康に命ず「信康に腹切らすこと」と


「子供かわいさに累代の家国つぶせぬ」と家康信康を罰しぬ
      信長家康の関係は同盟者というより主従の関係に近かった


家康は内通信じられぬが信長の命は至上命令なればいかんともしがたし


家康は信康の自決を遅らす手立てすれど信康見事に切腹21歳なり
      「内通の件は全くの無実」と遺言


築山殿は富塚で家来により殺害されぬ


長篠の合戦後家康勝頼の構想は第2期に入り家康は侵略されていた城地を回復


勝頼は氏政との同盟解かれ敵対関係となり家康にも圧迫受けつつ高天神城保持
        高天神城は東遠州制圧のための重要拠点なれば


1581年武田方岡部長政先頭に688人の守兵打って出大久保氏の軍と激闘玉砕


勝頼は甲州の西北韮崎に築城「新府」と称しぬ甲州の防衛線は後退




                <駿・甲・信の併合>>
信長は将軍義昭を河内に追放し浅倉義景浅井長政を攻め滅ぼしぬ
       義昭は反信長勢力を結集し信長を攻め滅ぼそうとした


1582年家康駿河、氏政関東口、金森長近飛騨口、織田信忠伊那口の四方より攻め
                  勝頼自殺す
       これ「天正壬午の役」なり


信長は武田親子の首実験行い、この戦いの論功行賞行いぬ


家康には駿河一国をあたえ、川尻秀隆を甲斐に滝川一益に上野信濃の小県佐久を与えぬ
 
      甲信2国に「国起きて11か条」制定


信長は武田の家臣の皆殺し命ずるも家康ひそかに遠江に隠し助けぬ
       誓詞ささげ帰順したもの895名


         <本能寺の変>
1582年6月2日本能寺の変起こる光秀天下取り望んだか


家康堺遊覧中に変事の急報を聞き直ちに伊那越えの間道通り岡崎へ


道中土民の一揆各地に起こり生命の危機あれど九氏に一生を得ぬ


家康は信長の弔い合戦に出発尾張の鳴海にて秀吉の勝利知りぬ
        秀吉「帰陣されたい」と伝えたり

        秀隆死し甲斐は一時無主の空国なり


起こり家康は甲信両国経略せんと甲府(府中)に向かうも一国あげての一揆おこりぬ
        川尻秀隆の強圧政策に反抗した一揆なり


条また甲斐狙い若神子にて氏直家康対峙80日にてようやく講和なる


更新2国は家康に任せ真田昌幸相伝の地上野の国沼田を氏直に割譲
        昌幸には代替地与えたり


1582年家康の領土は三遠両国に駿信甲加え五か国に拡大


軍事民事担当の奉行が三河より新領国に拡大増置されぬ


家康は検地により隠田摘発し徳川の蔵入地、給人の知行高に加え軍役高を増加させたり
       検地と並行し開発も奨励


徳川は新領土の重要な支城に一族譜代の武将を駐屯させ攻撃防御の軍事的拠点としたり


         <甲州給人の掌握>

甲斐統治の仕組みは郡代→両奉行→蔵前衆(代官)なり
       武田氏の統治態勢をほぼ引き継いだもの


最高職郡代と要職両奉行には徳川の譜代や家臣をなしぬ


下級の奉行や代官には帰順した武田氏の威信を起用し情報収拾に役立たしぬ


甲州武士が徳川軍団に編入されるとき寄り親を徳川氏の武将に肩代わりさせぬ
       それ以下の指揮系統は武田氏のまま

        
      <領国の流通統制、城下町の建設>
蔵入地、台所入は直轄地で戦国大名の経済的基盤なしたり


徳川氏の領国経営の諸政策は戦いに備えて富国強兵の態勢作ること


大名や給人が領地の年貢米や産物を換金するには在庁や市場が必要
徳政令で一切の債権債務の破棄などの振興さく


商品流通のために貨幣度量衡の統一にも力を入れぬ
家康は甲府金山の増産に力入れ財を蓄えたり


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遠州平定策軌道に乗ると家康は岡崎より浜松に本城移したり
1570年曳馬城を浜松城と改名


家臣団の岡崎参勤を浜松に切り替え上級家臣の城下居住が促進されぬ
       今川の給人も在番に加わった


浜松に移ると奉行衆に城下町を建設させたり


今川氏武田氏の領国内傳馬制度受け継ぎ活用したり


領主の御用勤める役町として伝馬町まず作られぬ
馬の無い町では歩駅


職人には業種ごとに町造らせ支配頭おいて御用勤めさせ代償に無税の屋敷与えぬ
領国内の販売独占権も与えぬ


城下町と地方の流通圏を結びつけ領国を一個の経済体に仕立てて掌握


豪商は大きな回船で上方から奢侈品軍需品を運び帰途には徳川氏や家臣の年貢米や東海地方の
                                           産物運びたり
茶屋や末吉などの

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