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zoom RSS 日本の歴史を詠み読む 50 <織田豊臣政権5> 小田原征伐、奥州仕置き

<<   作成日時 : 2016/07/25 11:23   >>

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日本の歴史を詠み読む 50 <織田豊臣政権5> 小田原征伐、奥州仕置き
   関白と奥羽    小田原征伐」、奥州仕置き 京儀への抵抗
            
                 <関白と奥羽>
 1573年伊達輝宗 信長に使者おくり馬、鷹など進上したり
           田村、秋田、前田、武藤、小野寺、らも1579年ごろまでに


都を目指す奥羽群雄は豊臣政権の全国制圧を予期して我が地位の保証得るため
                                           「関白様へのお執り成し」を懇願


1588年秀吉は戦国の東国、奥羽の群雄に対し「戦闘の停止と服属」求める指令発す
          「天下一統にご安全を」の意趣


金山宗洗関白様上使として出羽山形の最上義光の城下に至る


命令に反するすべての戦闘は私闘とみなし関白に抵抗する「不屈の仁」として誅罰


庄内をめぐる山形の最上氏と越後上杉氏の争いは豊臣政権内部での異なる派閥抗争となり                                                          当事者の手を離れぬ
 
          徳川家康対石田、増田派の対立

1589年庄内は上杉のものと決し石田派の勝ちとなりぬ


南奥の会津では旧族芦名家の継嗣争い巡り伊達氏と佐竹氏争いぬ
          伊達氏は家康と結び、佐竹は石田と結び

1589年正宗は会津攻略を断行し芦名氏を滅ぼしぬ


豊臣政権は正宗問責の上使差し向け上杉景勝と佐竹義宣に正宗誅罰を命じたり
              三成は芦名旧臣に兵糧米、南里鉄などを送りぬ

伊達は奥羽探題を主張すれど豊臣政権は天下の探題を主張し争う


関白政権の認めぬ行動はすべて不法と強硬に主張しぬ
 
          関白職の権威あらわに

豊臣政権 の内部に東国政策巡る対立あり強硬派は石田、上杉宥和派は徳川、北条、伊達


1586年上杉上洛時に「関東の儀」は上杉と徳川にゆだねると


東海、関東、東北に地域統一権力として独自の領国拡大しつつあった諸大名には豊臣政権の
                                           天下統一策は邪魔なり

これら諸大名に圧迫されていた周囲の郡小領主ら豊臣政権に期待持ちおり
            「天下の仁」として誅伐してくれることを


集権派の強行政策に対抗する分権派は家康,秀次、利家、浅野長政、利休ら


1588年石田三成は小西隆政と並び堺奉行となり堺を完全に従属させたり
            環濠埋め尽くしたり


 
画像




         < 小田原征伐」、奥州仕置き>


集権派目指したるは徳川北条伊達など独立性強い大名勢力を解体すること

石田三成ら目指したるは「小田原征伐」「奥州仕置き」なり
           徳川の分国を作戦基地として北条氏分国を粉砕 伊達を誅伐する作戦

「内々の儀≫掌握しいた利休は徳川と結びつき宥和派の中核なりし故強硬派の攻撃受け自殺に追
                                                      いやられぬ

1595年の秀次の誅伐又しかり


高野山の木食上人記したり「少しも背けばたちまち身のさわりをなす」と

1589年11月北条氏への誅伐の宣戦布告されぬ
           罪名は「公儀の命令を無視して上洛を拒否」したこと」


「天下の勅命に逆らう輩」として公儀天下の名にて誅抜を正当化したり


出動の時期は「来歳」とし諸大名の妻子を人質として京に住まわすこと命ず


浅野長政、利家、利休ら宥和派の大名は、伊達に東征避けがたきと忠告すれど正宗応ぜず


北条は宣戦布告突き付けられ家康に和解の仲立ち以来すれど強硬派を押し留められず


宣戦布告の写しは広く東北大名にも送りつけられ関東東北の齢領主ら豊臣軍の東征を待ちわびたり
    
        北条伊達の強勢に脅かされていた故に


この動員は北陸東海から九州まで包み込み軍事負担は検地で確定された知行高を基本とす
            地域別に一定の基準あり


100石につき5人の軍役は豊臣政権下で「本位」と呼ばれた石高当たりの基本軍役


検地石高を基準とした軍役は1589年までには毛利など旧族大名にも貫徹


豊臣政権の権力の在り方は大小名軍団の寄合を脱却し軍役の量、動員方式は深化したり


豊臣政権は「検地の確定」「国衆とその妻子を大名の城下に集結」「妻子の在京」を要求しぬ
   
       全領主階級の統制を各大名領の末端まで貫く政策なり


軍役の割り当ては徳川氏領国を初め東海北陸に重く畿内以西には比較的軽い方針


これ、徳川領国に対する狙い撃ちと大陸侵略に備えた九州勢の温存を考慮して


徳川氏の分国はほとんど全域が他国の首領にゆだねられ事実上豊臣政権に開放されたり
           三河岡崎城に羽柴秀長の軍


この配置は三成ら強硬派の東北制圧への計画で西に偏っていた豊臣政権の力が
                      東海東北へ浸透する画期となりぬ


総軍団の体制はは東海(家康)衆は「先手」中国勢は「後備」四国衆は「助の衆」南海勢は
                                           「普請の衆」と役割り分担

北条氏1587年頃より本格的な籠城体制づくりす


北条市の分国は駿河の東より下野上野上総下総にて数多
豊臣方は支城1つずつつぶし最後に本城を落とす秀吉得意の「干殺し」作戦取りぬ


秀吉は早川を隔て眼下に小田原城を見下ろす石垣山に本陣置きぬ
  
        長期戦のための築城


3月6日両軍の先鋒交戦より降伏の日まで4カ月120日に至る抗戦籠城

小田原城接収は家康にゆだねられ北条氏政氏照兄弟は切腹小田原城主氏直は氏親ら一族
                                          300余人と高野山に追われぬ
           氏直は氏政の子で家康の女婿。近畿の小大名となる

家康は落城寸前の6月無彩江戸城への本拠移籍の国替えを内示されぬ


家康は北条分国と引き換えに本拠三河を初め旧分国のすべてを没収されたり
           8月1日を画して関東の主となる

織田信雄は徳川旧領への国替えを拒否し下野の果てに追放されたり


家康、信雄の分国だった尾・勢・三・遠・駿 ・甲・信は秀次ら政権をじかに支える直臣団に
                                             分かち与えられたり

           <京儀への抵抗>

東国の領主大名たちそれぞれに小田原に参陣す津軽氏、南部出羽の戸波氏湊氏


佐竹氏は石田三成増田長盛らに伊達氏は浅野、前田氏らの指南受け秀吉に臣令


7月奥羽出動のための道路橋の整備指令され小田原落城の翌日秀吉の会津進発
                           公表されぬ


佐竹、宇都宮氏「御とまり」(宇都宮陣所)設営と奥州への先鋒命じられぬ


佐竹氏莫大な兵糧米の調達命じられこれを領内に割りつけたり
          「殿下様の指令」「増田方、石田方催促」

秀吉は伊達政宗、最上義光、佐竹氏に「妻子は人質として上洛させよ」
   
        佐竹氏は父親義重までも

家臣たちの根拠の城郭総て破却する城割にて家臣個々の独立の基盤握りつぶされぬ検地、城割り、人質の挑発を「殿下催促」の名で行うことが豊臣大名としての地位の保障なり

秀吉は黒川に進陣関白御座所として直轄領となし伊達氏は米沢の旧居に撤退させられぬ

豊臣政権の東北支配策「奥州仕置き」のおおわくは「国分けの決定」
 
         土台は奥羽独自の「御検地条々」方式

国分けは出羽は総じて現状維持なれど奥羽は津軽、南部、伊達、相馬、岩城以外は 没収されそこに
                                              蒲生氏郷木村義清割り込みぬ


出羽諸将の旧領維持には北国海運による中央との結びつきが役立ちしかとーー


秀吉は奥州統括を秀次にゆだね去るに際し基本方針を提示す「


「国人並びに百姓どもに合点ゆき候ように能々申し聞かすべき候」


「不届きなものはなで切にせよ」これ秀吉の百姓国人への恐怖の表れか
」  
       肥後一揆での反省

検地には現地の慣習取り入れたれど最終的には換算されすべて「石」の単位に集約されたり
         すみずみまで石高を建前とする中央政権の統一基準


月下旬駿府に引き上げ小西行長らと侵略計画練り朝鮮王の使節と初会見す


同じころ島津氏は関白の権威を背景に琉球国王に弾圧加えぬ
 
         「天下一統を祝う使者を送れ」

          
                 <奥羽一揆>
奥羽各地の一揆は豊臣政権に大名の地位認められなかった地域を中心に起こりたり

           旧領主の支配が否定された

奥羽一揆は郡中規模の侍たちから百姓まで包み込み「田舎」自称する人々の 「上位」に対する
                                         心情的な嫌悪反撥が原因

「郡中諸侍そのほかの下々まで公儀を嫌い申す」と


一揆は領主達だけでなく農村を巻き込みぬ故村野人質も取りて検地進めたり


仙北の人々一揆に敗れし後は年貢損免を要求し年貢未納の戦いに転じたり
           「年年作く違い申し」など不作の「詫言」申し立てぬ


1590年豊臣主力軍引き上げし後葛西・大崎一揆起こる


新入りの大名木村氏の分国は旧領主らに指導された一揆で崩壊の危機生ず


一揆は和賀・稗貫二郡にも広がり暮れを控えて秀次大将に軍勢の覇権を決定
    
       石田三成、徳川家康にも救援軍はけんの命令

秀吉立花氏ら九州の諸大名に命じ名護屋に侵略基地の設営を支持す

                 <木村改易、伊達転封>

旧援軍くる前に一揆は伊達氏を頼って下り木村氏は一揆失政の責任で改易


木村氏改易された後に伊達氏転封本領米沢より奥州岩手沢へ


石田、蒲生ら一揆の後ろに伊達氏ありと主張し宥和派(徳川系)と強硬派(石田系)奥州対策巡り
                                           主導権争い再び


南部・九戸の対立激化し六月秀次・家康を大将に三軍編成にて攻め秋には制圧す
          浜通り、中通り、出羽通りの三方から

南部九戸の戦いにはアイヌの人々巻き込まれた形跡あり

松前の神崎慶広「毒矢射させんため」蝦夷ども連れきたり
          蝦夷藩主としての地位を秀吉に見せつける目的か

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