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zoom RSS 日本の歴史を読み詠む48 <織田豊臣政権3> 信長の死、豊臣政権の基本政策

<<   作成日時 : 2016/07/13 15:20   >>

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日本の歴史を読み詠む48 <織田豊臣政権3>
検地、大名の知行権  未完の天下  地上の神の死  五畿内錯乱     大坂築城    一向一揆鎮圧  関白就任
 政権作りの構想    唐国までも 政権作りの構想
 
          <検地、大名の知行権 >

信長の土地政策は信長の意向次第という「朱印次第」


信長は荘園保護知行化政策通して荘園領主を己の意志に組み込みぬ
      
   彼らの権益の実権を掌握

荘園を旧領のまま認めたうえで最終的には信長の土地大権化に取り込み編成
        信長に帰属する知行地とする


大名は領主権を領域として給与されそこにある寺社、家など荘園領主の所領はもとのまま        
              一職一円

検地知行制の真の狙いは荘園領主と荘園農民間損免紛争を惣国で統一的に抑制すること
          個々の紛争を統一の規制下で解決


荘園は知行となり知行の内容は「指出」により掴まれ惣国となる
         知行とは、武士が主君から給付・安堵(保証)された所領を意味


惣国は織田権力の統制下に入りたり


村々で「家数」調査行われ年貢も様々な夫役も村ぐるみの責任として押し付けられたり
 
        織田権力による家数改め、出入り作の確認


                  <未完の天下>
信長は光秀に命じ織田支配国全域に「お馬揃」参集を指令させたり
                          これ、石山戦争戦い抜いた織田軍団こぞっての凱旋式典なり


パレードの会場は内裏脇に作られ、信長は天皇をも引っ張り出したり


秀吉は播州の戦場にありてパレードには参加できず


編成は一門衆、安土衆、他国衆よりなり、一門衆は信長の血縁、安土衆は信長の親衛隊
           安土に移住ささられていた

他国衆は織田家の宿老クラスと信長の初期を支えた親衛隊クラスの家臣が組み合わされ,
                         そこに地つきの国衆が組み込まれおり

           摂州衆、若狭衆、越前宗など


信長は公武のあらゆる伝統的な政治や官職秩序の外に立ちたり
           副将軍の地位を断り正親町天皇に退位を迫りぬ


されど想像する「天下」の完成には自らが王法・仏法を統一的に体現する
                            権威権力の中枢になることが必用なり



分国の拡大にともない各国の土着の国衆軍団の統率者として独立する
                  直属武将の扱い方問題となる

1580年信長は利家を能登の佐々を成政を越中の大名としぬ
          旧領居城をすべて返上妻子も家臣団も根こそぎ移住させらる
   
これ国替えの原型にて土着軍団の分化自立傾向の克服なり


信長は敵方の所領の没収強化し新地(扶助地)として侍たちに分配
          欠所、助落

織田家の宿老佐久間信盛父子は「武篇道ふがいなき」ととがめられ高野山に追放されぬ
          蔵納分の私物化

この追放は信長の全家臣団に向けての発信なり


信長の期待「武篇者」「武道者」にいかなる資質と実践を期待するかを発信したもの

 

画像




  <地上の神の死>

朝廷は信長に官位贈らんと安土に勅使をおくりたり


信長湖上に船を浮かべもてなせど勅命には答えず


この一週間後安土山の一角にハ見寺を創建し己をまつりぬ
    
     高札にて礼拝せよと命令


信長は絶対君主では飽き足らず地上に神の命を持った不滅の主に己をなぞらえたり
          「与自らが神」

信長の誕生日を聖日として礼拝尊信すれば功徳と利益もたらされること疑い無しと


信じない邪悪の徒は現世来世共に滅亡あるのみ


一向宗法華宗下し信長が行き着いた「天下」とは唯我独尊独裁者の道か


地上の神として公家も武家も寺社も百姓もすべてをその膝下に従わせること


その19日後信長本能寺にて明智光秀に攻められ致死させられぬ 享年49歳


日本六十六か国の絶対君主となりし信長の次の夢は支那の征服なりと
         
        
      <五畿内錯乱>

秀吉は信長の死中国にて二日後に知り「明智の逆心」と言いその二日後知りたる毛利は
                          「不慮の吉事」と言いたり
         

この二日の間に高松城下り秀吉急遽引き帰えりぬ


世人「五畿内錯乱」と言いしこの時は一向宗再起の機なり
         伊勢、能登の宗徒「一揆の取沙汰」

本能寺は光秀に信長父子の討伐祝う「飛脚」をひそかに送りぬ


1582年6月13日光秀山科の山中で果て、湖東の安土城、湖西の坂本城焦土となりぬ        
  
              ともに光秀に占領されていた


父子義絶のまま影ひそめおりし本能寺教如天皇のとりなしで雑賀へもどりぬ
         雑賀には父顕如在住

尾張清洲城にて清須会議開かれ世人言う「天下の機・・・以上5人して分捕りの様」と
          柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、堀秀政、羽柴秀吉


秀吉は織田直系の幼孫三法師(秀信)を後継者として担ぎぬ


秀吉は中央の山城押さえ「領地方改め」の検地(指出)を開始しぬ


10月15日秀吉は大徳寺にて信長信忠の葬儀盛大に行いぬ


織田の宿老、丹羽、池田、堀ら秀吉の掌中に取り込まれたり


織田信孝、柴田、滝川ら秀吉との対戦企てしが深雪に阻まれ実行できず
          前田利家仲介して講和す


五畿内錯乱の間に家康は東海から甲信まで分国を拡大す


家康後押しして織田信雄に幼い秀信の名代としぬ


1583年加賀の佐久間盛好、越前の柴田勝家賤が岳にて壊滅的打撃受け滅びぬ


この戦いを秀吉「織田家の御宿老衆(勝家)と「小者」「一僕」(秀吉)の戦い」と表現


柴田を越前北の庄に追い詰めて秀吉言いたり「 日本の治、このときに候」と


秀吉高言「東国は北条に、北国は上杉に西国は毛利に任せよう。
              日本の果てにいたるまで今や秀吉の思うまま」


            <大坂築城 >
秀吉大阪城築城普請を30余カ国の城持ち大名に割り当てぬ


秀吉大坂築城にもくろんだは京にかわる「日本の治の中枢」新たな都を作ること


この城は安土城の信長の継嗣織田秀信、後見役織田信雄への挑発、本願寺一向一揆への
                            完全な勝利の象徴なり

1584年3月家康は信雄とはかり伊勢尾張に軍をおこし敵対始めぬ


小牧山の戦い有りて後11月信雄秀吉間に和議成立


家康は三河以東を確保し秀吉軍を峻絶し秀吉は相次ぐ総動員を通じて軍事編成を強化す


信雄につくか秀吉につくか旧織田軍団の武将は二者択一を迫られぬ


秀吉二度にわたり6万~10万の総動員この間に秀吉直属軍団の原型造られぬ


             < 一向一揆鎮圧 >
1584年秀吉大阪城に入る大阪並み体制の中枢の徹底的解体なり


雑賀一揆のひとびと法主の意志に反しふくざつな一揆行動の動き


鷺森御坊引き払い御門主{顕如)新門主(教如)ら和泉の貝塚御坊に移りぬ)
          かっての貝塚道場

顕如は秀吉や岸和田城主に贈り物繰り返しひたすら延命に努めたり
          豊臣権力に屈服

紀州の一揆衆雑賀の年寄衆など地方一揆の人々最後の総決起望む
                           織田政権の瓦解にともなう支配権力の分裂をつき

秀吉は尾・濃の一揆の拠点の解体めざし尾張聖徳寺の寺内を楽市につくりかえぬ


地方一揆に法主は「われ関せず」と釈明これ信長の「惣赦免」体制の破城なり」
          法主を赦免し法主を通じて全一向宗一揆を赦免統制する方式


秀吉は小牧長久手戦を停戦し紀州目指して出陣10万の兵とか


毛利水軍総動員され小西行長は「海の司令官」


織田水軍に対立していた安芸の一揆水軍豊臣水軍に従属雑賀攻撃に参加
            内海一揆世界の崩壊

秀吉命じぬ「人も動物もことごとく火と鉄にゆだねよ」
           寺寺炎上「坊主の共和国」滅びぬ

秀吉は戦闘部隊、供給部隊の機能切り離し軍事力機能性長期戦に堪える持久力を
                 飛躍的に強化せしめり

紀州一揆太田城に拠りて一カ月国衆の裏切り脱走にも耐えて持ちこたえぬ


秀吉はこれを水攻めにせんと周囲に土手を築き大河の水を叛乱させぬ
          

築堤工事は「領地の分限」知行高の大小に応じ諸将に割り当てたり


この戦いは豊臣の権力と土民衆との戦いなり


秀吉方このあらたな湖水に軍艦浮かべ大小の鉄砲にて攻撃しぬ


戦後首謀者50人処刑したれど他はすべて助命す


「残る百姓を召し直し耕作を専らに」これ兵農分離、耕作強制、武装解除の
        
          刀狩など豊臣政権の基本政策なり

信長より秀吉に受け継がれた統一政権の骨組みは一向一揆との対決の中で作られたり


軍事力による一揆解体の後に必要とされたは農民対策なり         


秀吉は大阪城の近くに法住本願寺の「寺内」与えぬ元の「寺内」よりことのほか広し


教如は加賀越前を回り門徒らの宣撫工作勤めたり


大坂城下の中島寺内は秀吉に従属する本願寺の地位の象徴示す秀吉の巧妙な演出なり


1586年御影堂の上棟祝いの日武士たち参詣人に礫投げかけ大騒動


礫打ちし悪行人は「武士」石打たれ追いかけられ他は「参詣人、町人の御門徒衆」にて
                  武士の百姓へのあからさまなる侮辱兆戦なり


「主ヲモタジ」という侍の抵抗「侍、モノノフ」の百姓への「サゲシムル」意識の
      
            対立は豊臣権力に重大な課題残したり


               <関白就任>
1585年7月秀吉関白となる

       石田三成、大谷吉継、福島正則、中村一氏ら侍も諸太夫となる


関白は藤原氏の家職ゆえもっとの関白近衛前久の猶子となりて関白


この年秀吉は一貫して寺家公家の保護策を打ち出しぬ


秀吉は関白就任を機として自らを貴種(王族)と名乗りぬ

           <政権作りの構想>

 関白就任は秀吉の政治選択で統一政権を目指す最初の大きな画期なり


石田大谷ら子飼いの小身の側近を諸太夫に昇格させたは権力中枢の強化のため


一五八二年の秀吉「日本の治」の構想は東国北条氏政北は上杉景勝中国は守護輝元と


秀吉関白となりし頃は中国は吉川、小早川、毛利、土佐は長宗我部越中では佐々成政
                      ら新たな戦国大名創り出されぬ


大阪城中心とする中央地帯は完全に秀吉の直接掌握下となりぬ


国分け国替え行う国替えは」検地の施行やり直しと分かちがたく結びつきおり


秀吉の弟秀長は四国征伐の戦績で目覚ましく起用されたり


秀長大和一国の大名として郡山城に入りぬ
          「内々の儀」は千宗室、「公儀の儀」は秀長

秀吉秀長兄弟の政権分担による支配体制は関白就任とともに作られた政治理念なり

        
             < 唐国までも >
関白となり秀吉は「新王」という特異な強烈な印象を世人に植え付けぬ


秀吉関白になりし年に大陸進攻を言い出しぬ
   
      「日本国のことは申すに及ばず、唐国まで仰せつけられ候こころに候」


進攻の公表は大軍にて大和の国分け国替え強行した同じ日なり
          内政強行と対外侵略は秀吉政権構想の中で分かちがたいもの


翌年三月秀吉は宣教師たちに会い朝鮮中国の征服について語りぬ          
          二〇〇〇艘分の軍艦用材の伐採に取り掛かっている


大陸侵攻計画の目的は家臣団へのいっそうの奮起と統制なるか
       全国平定への展望が開けた時


九州の所領争奪の停戦命令を島津氏は鎌倉以来の武門の名に懸けて拒絶
           天皇=関白の名による命令の無視


秀吉自らの力量と権力により断行した検地の結果を「かがみ」として天皇に照覧
  
          図帖〈御図帖、水町)


         <政権作りの構想>

1586年「天下の法度」関白政権最初の法典発布されぬ


これ、豊臣政権の支配原則の集成されたものなり


第1条に武士階級様々な身分の人の主従関係の変動を抑制
  
          奉行人、侍、中間、小者、あらし子など

さらに四か条に渡り侍以下の服装規制定む
            衣服や履物等の質に及ぶ


家臣団内部の身分に応じた規制にて服装の外形格差にて主従性の秩序身分編成を確定


第4条は農民統制令にて百姓に対する年貢、夫役の皆納強制と移動禁圧をねらうもの


知行地の年貢収納、その際の損免規定有り原理的には全国一律の損免率
  
         「二公一民」

米の総収量が一反につき一斗に足りぬ時は「農料」としてすべて百姓に


第5条には百姓への迷惑無体な行動を誡めたり


「天下の法度」らしい掟を示し給人百姓の上に立つ公平さを印象付けるねらいなり


このポーズが個々の領主を超える中立的な調停、権力としての「公儀」幻想生む元


「損免率の画一化による農民間の争いの抑圧と農民への耕作強制、土地緊縛」こそ
       </strong>                この法典のねらいなり

追加法「条々」三か条はこの法典を「知行方法度}と呼びその重点を強調

法令の根本は「個々の給人の知行権を土地として個別領主権を擁護し、統一的な紛争
処理規範で農民の伝統的抵抗を抑圧するにあり


一向一揆を解体させつつその時々で作り出した政策個別法を一般化することにあり


個々の大名・領主を越えた統一政権の法の成立は被抑圧者にはいいようなく重いもの


大名・領主にとっては個々の領主支配を補強する手立てとも


京枡による知行地年貢の計量基準の画一化は石高制整備の基本となりぬ


秀吉は大型治水の機能を個別の領主権から切り離し「上聞」「上」つまり
                    関白政権に帰属すると定めたり


水利大権を握ることで水田耕作に基礎を置く百姓支配を強力化するねらいなり


武士の世界の主従関係の固定、農民に対する耕作強制と土地へのしばりつけを強化


下剋上を凍結し兵農分離を押し進めることが関白政権の基本政策として確定されぬ

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